私は日経ビジネスアソシエという雑誌に連載をもっているのだが、まじめに読んで下さる人が多いようで、ときどき物議をかもし出す。

前は『ごくせん』について、秀才が性格がねじまがっていて、不良が心がきれいみたいな描き方をしている際に、それがあまりにステレオタイプである以上に、今の学力格差の時代では、それをさらに広げる結果になると書いたら予想外の反響があった。

今回は、鳩山法務大臣をかばって、死刑囚を一人死刑にしないと1年で600万円はかかる、冤罪はゼロにはできないが、取調べの録画をして、さらに代用監獄を廃止すれば、1年で冤罪で死刑になる確率は宝くじで1億円以上あたる確率の1500分の1と書いたら、編集部に非難の電話が何件かあったとのことだ。

1年で600万円というのは、実はかなり低く見積もっている。
というのは、囚人一人当たりの予算が約400万円といわれているから、独房で看守の数も多い死刑囚は倍以上はかかっている可能性が高い。

もちろん、囚人が多くても少なくても予算は同じという見方もあるし、食費や部屋代だけで計算すべきという考え方もあるだろう。

それにしても、囚人の数を減らせば、それだけ刑務所予算は少なくてすむはずだし、今のように囚人が増えると増設をしないといけない。未執行の死刑囚が増えれば独房をよけいに作らないといけないから、相当のコストになりえる。

昔のように国に金のある時期ならともかく、悪いことをしていないで、体を壊しただけの人が生活保護を受けられずに、自殺したり、飢え死にしたりしている時代にいかがなものかと私は言いたい。

確率にしても、確かに算出根拠は、正確にはできない。

冤罪の死刑がこの30年で3件くらい(再審が通ったという話なので、もっとあるかもしれないが)ということと、代用監獄と取調べの録画で、それが10分の1にできる(だから死刑囚を生かせておいて無駄な金を使うくらいなら冤罪を減らすことにコストをかけるべきだともこのコラムで主張したのだが)ということを算出根拠にしたのだが、こんなものは正確な数字が出せるものではない。

ただ、数字が正確でなくても、死刑囚がただで生きているわけでないし、不幸な冤罪の可能性が、一般的な統計では無視できるほどのきわめて小さな確率であることは確かだ(それだって減らす努力はすべきだ。代用監獄を残し、またマスコミが弁護側の意見を載せない形で警察発表だけを報道する現在の形で、裁判員の制度を導入するほうがよほど危険である―まして、冤罪の確率の高い裁判員の制度を導入するために、悪いやつの死刑を執行しないというのは本末転倒だろう)と言いたかったのだ。

一つだけ言えることは、世の中に確率がゼロのものはない。だから、それに見合うベネフィットがあれば、あるいは、その確率がきわめて小さなものであれば、ある確率で不幸なことが起きても、それを行うべきだとしか言いようがない。(何度もいうがその確率を減らす努力はすべきである)

死刑制度にしても、その抑止力で何人かの命が救われる(抑止力がないという人もいるが、1割くらいは死刑がなくなれば、殺人は増えるかもしれない。だとすると100人以上の命が救われることになる)のなら、何十年に一人くらい冤罪で死んでも、その制度を守ろうと考えるコンセンサスを作るしかない。(もちろん、冤罪の確率をゼロにできない以上死刑を廃止すべきという立場もありえるが、それを決めるのが民主主義というものだろう)

本日も、ちゃんとした子育てをしているのに、娘が父親を殺すという事件が報じられていた。

確かに子供に勉強をしろということで、子供がおかしくなる可能性はゼロではない。しかし、それを言わないことで子供が社会適応できなくなる確率のほうがはるかに大きい。

テレビで精神科医や心理学者が好きなことを論じるが、経験上、いろいろなことがありえることと、その確率はきわめて低いので、子育てをなさる親は、うろたえるほうがよほど悪いことを伝えるほうが、よほど建設的だし、良心的だと私は思う